絶対に眠くならない日本史

〜短編諸説〜

794年 平安京に都を移す

      2016/05/28

都を引越したのは、霊が怖くてびびってたから!
-桓武天皇(57)-


出典:http://goo.gl/2PIljO

桓武天皇?

第50代天皇(在位781~806)。名は山部(やまのべ)。在位中は坂上田村麻呂を征夷大将軍として、東北地方に派遣するなど朝廷の権力を大きく伸長した。

INTERVIEW


―「鳴くよ(794)ウグイス平安京」という言葉をご存知ですか?

桓武天皇(以下桓武)
「朕は存ぜぬ。平安京にはウグイスだけでなくホトトギスやカッコウもおるぞ。万葉集*の歌かなにかか?」

出典:http://goo.gl/JJtzOC

―語呂合わせです。あなたが794年に都を平安京に移したんですよね?

桓武
「その通りである。しかし腑に落ちないのう。朕は確かに長岡京*から平安京への遷都を実行したがその10年前に平城京から長岡京へ遷都したのも朕の功績なのじゃ。なぜか皆から平安遷都のことばかりきかれるのじゃ。

―長岡京から平安京に遷都した理由は何だったんですか?

桓武
「当時は天皇中心の律令体制*が衰退し始めた時期で、朕にはむかう“お歯黒”貴族どもと距離を置くため…というのは、実は表向きの理由じゃ」

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―本当の理由は?

桓武
「朕の優秀な部下であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)*が暗殺されたのじゃ。その犯人として疑われたのがなんと!朕の弟である『早良(さわら)親王*』で逮捕されてしまった。最終的に流罪になったのじゃがその道中で衰弱死してしもうた…。朕は今も弟は無罪であると信じておるが、その後朕のまわりで様々な災いが起こったのじゃ!」

―具体的には?

桓武
「まず朕の妻が病死した。ついで朕の母も死んでしもうた。さらには息子が重病になってしもうた。しかもその間、長岡京では飢饉や疫病が発生したのじゃ。こっ、これは弟・早良(さわら)親王の祟りじゃ~!」

出典:http://goo.gl/Zrkp8d

―怨霊から逃れるために長岡京を捨てたということ?

桓武
「なんじゃ、文句があるのか!朕は天皇であるぞ!」

―再遷都の場所を平安京にしたのはなぜですか?

桓武
「朕の右腕である和気清麻呂(わけのきよまろ)*の進言によるものじゃ。ある日、狩猟に行ったついでに京都の東山に寄り、盆地を見下ろしながら、京都へ都を移すべきだと口説かれてのう。清麻呂の言うことに間違いは無いのじゃ」

―碁盤の目状になった京都の街並みは美しいと言われています

桓武
「ほう、それは嬉しいのう。平安遷都を進言したのは清麻呂じゃが、決定したのは朕であるぞ、わっははは」

出典:https://goo.gl/o3SVtq



万葉集*
7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた最古の和歌集。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年以後とみられる。

長岡京*
現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区にあった古代日本の都城。宮域跡は向日市鶏冠井町(かいでちょう)に位置し、「長岡宮跡」として国の史跡に指定されている。

律令体制*
律は刑罰法令のことで、令は行政法に相当する。律令体制とは、刑罰法令と行政法で統治する国家体制のことで、要するに法律で統治されている国家体制のこと。

藤原種継(ふじわらのたねつぐ)*
奈良末期の廷臣。桓武天皇の信任厚く皇太子早良親王と対立。784年造長岡宮使として遷都に着手したが翌年暗殺された。

早良(さわら)親王*
皇太子の座にあったが殺人事件の関係者あるいは首謀者の嫌疑をかけられた。一言の弁明もできないまま幽閉され、配流の途中、衰弱して亡くなった悲劇的な人物。

和気清麻呂(わけのきよまろ)*
奈良末・平安初期の廷臣。平安遷都を建議。衰弱して亡くなった悲劇的な人物。

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