絶対に眠くならない日本史

〜短編諸説〜

1600年 関ヶ原の戦い

      2016/05/29

天下分け目の合戦にたった半日で勝利。
-徳川家康(59歳)-


出典:http://goo.gl/565XGa

徳川家康?

徳川幕府の初代将軍。6才の時織田・今川の人質となるが桶狭間の戦い*で岡崎にもどり、信長と結んで勢力を拡大、信長の死後は豊臣秀吉*と対立するが和睦し、秀吉の天下統一に協力する。秀吉の死後、関ヶ原の戦いで石田三成を破り対抗勢力の一掃に成功した。

INTERVIEW


出典:http://goo.gl/ylQptb

―天下分け目の戦い、ズバリ勝算はありましたか?

徳川家康(以下家康)
「あるわけないじゃろ。今までワシは戦(いくさ)の前にさまざまな策略・調略を駆使して乗り越えてきたんじゃ。戦う前からすでに勝敗は決しているという事も少なくなかったが、この時ばかりはどっちに転ぶかまったくわからんかったよ。ワシの東軍は総勢7万人、一方西軍は10万と数的にも不利じゃったしな」

― 西軍の中心人物だった石田三成*はどんな男ですか?

家康
「クソ真面目。頭脳明晰だが戦は下手じゃったよ。ただ、奴の側近には大谷吉継*というとんでもない勇将がいたのう。三成はその真面目さゆえ曲がったことが大嫌いで、それを快く思っていない武将がたくさんおったな。奴にもう少し人心掌握術があったら、関ヶ原の戦いも違った結果になっていたかもしれん」

出典:https://goo.gl/I2f6wd

―戦いはあっけなく終わりましたが勝敗のポイントは?

家康
「ウム。決戦の火蓋が切られてからワシの東軍が半日足らずで大勝利した。ポイントは何と言っても小早川秀秋*じゃな。しかし危ないところじゃった」

―どういうことですか?

家康
「小早川秀秋は西軍に属していたが、事前に寝返るよう話を持ちかけていたんじゃ。にもかかわらずあの野郎、軍勢を全く動かさない・・・。ワシはしびれを切らして秀秋の部隊に鉄砲隊を向け、一斉射撃してやったんじゃ!」

出典:https://goo.gl/zAFREg

―小早川秀秋は怒ったんじゃないですか?

家康
「いや、逆にビビってやっと軍勢を動かしよった。1万人以上が西軍の部隊に襲いかかって大勢は決したわい」

―結果的に圧勝でしたが、嫡男・秀忠氏*は合戦に間に合いませんでしたね?

家康
「まったくどうしようもないバカ息子じゃ。ワシはのう、小大名の頃から真田昌幸*には何度も痛い目にあっておるのじゃ。関ヶ原に向かう道中、真田昌幸の上田城を通ったのが運のツキ。真田兵はたったの2000、対してバカ息子は、3万8000の兵力がありながら突破できなかったんじゃからの。ワシは上田城など無視して早く来いと何度も言ったんじゃが・・・」

出典:http://www.tsukudo.jp/hito-hide.html

―関ヶ原の戦いを総括してください

家康
「石田三成は豊臣家への義を貫いた。奴は自分の西軍が官軍だと思って戦っていたはずじゃ。しかし戦国の世は『勝てば官軍。負ければ賊軍』なのじゃ」



桶狭間の戦い*
2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元・今川氏真親子に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた、日本三大奇襲に数えられる日本の歴史上有名な戦い。

豊臣秀吉*
「サル」のあだ名で知られる室町時代末から安土桃山時代にかけての戦国大名。群雄割拠に割れる日本を統一した人物。

石田三成*
安土桃山時代の武将・大名。豊臣氏の家臣。。豊臣政権の五奉行の一人。関ヶ原の戦いにおける西軍側の主導者である。

大谷吉継*
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。関ヶ原の戦いでは親友・石田三成に挙兵を持ちかけられる。その際には、無謀だと諫め説得するも、三成の出兵を止められないと悟り、負けるとわかっている西軍に参戦する。

小早川秀秋*
秀吉の親族として豊臣家では重きをなしたが、小早川と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。

嫡男・秀忠氏*
安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。

真田昌幸*
戦国時代~江戸時代初期の武将、大名。武田家家臣の時代から信州上田を拠点としており、「表裏比興の者」の名でも知られた。徳川軍に対して2度の勝利を収めている。

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