絶対に眠くならない日本史

〜短編諸説〜

1615年 大阪夏の陣
(豊臣氏が徳川氏に滅ぼされる)

      2016/05/29

日本一の兵と呼ばれた男
-真田幸村(45)-

出典:http://museum.umic.jp/hakubutsukan/
 

大阪夏の陣って?

徳川幕府を開いた徳川家康*にとって目の上のたんこぶであった豊臣家の存在。徳川家安泰のために家康は、大阪冬の陣*と夏の陣で豊臣家に攻め入った。冬の陣では真田幸村(真田信繁)の大活躍によって豊臣側が善戦。その後の夏の陣でも再び真田幸村の活躍により苦戦するが、最終的に家康は豊臣家を滅ぼした。

要は徳川家が豊臣家を滅ぼした戦いの事。
 
 

INTERVIEW

出典:https://goo.gl/LjhUIP

――素晴らしい活躍でしたね

真田幸村(以下幸村)
「真田隊は3千の兵で家康の孫である*松平忠直隊(1万3千の兵)を倒しました。死に物狂いで家康の本陣へと突入!と、調子は良かったんですが結局負けてしまいましたからね・・・」

――家康さんが自害を覚悟するほど追い込みましたね

幸村
「家康の馬印*をなぎ倒しましたからね。家康の本陣の馬印が倒されたのは1573年に武田信玄と戦った三方ヶ原の戦い*以来、42年ぶり2度目のことらしくて。すごいですねって後輩は言ってくれるんですけど、結局負けてしまいましたから(笑)」

出典:http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/18704

――これが日本一の兵と言われるようになった出来事ですね

幸村
「僕の前評判低かったのと影響力ある家康を追い込んだからですかね。あと決してあきらめないで最後まで戦かったから周りが言ってくれたのかなと思います。負けたのに日本一の兵て!って思いましたけどね(笑)この戦いの前、家康は僕の事をなめてたらしいですよ。なんや親父じゃなくて息子の方かーいって(笑)」

――豊臣さんについて戦ったのはなぜだったんですか?

幸村
「豊臣家から大阪城に入るように言われまして、黄金200枚、銀30貫を送ってきました。ちなみにこの時私は48歳。歯は抜け落ちて白髪交じりで腰も曲がっていたんです。だから大阪城の門番に山賊だと勘違いされたんですよ(笑)」

――九度山での幽閉生活*から抜け出したいというのもあったんですか?

幸村
「抜け出したくてたまりませんでした。借金して苦しかったですしね。今だから言えますが実は狩りもできましたし、兵術や鉄砲の訓練したりと売れない武将のくせに割と自由だったんです(笑)」

――戦う気力はすぐに湧いてくるもんなんですか?

幸村
「徳川家が戦いをふっかけてきた理由を聞いて、こんな奴はブチ倒さんと駄目だと思いました。なかなかの言いがかりですよ」

――どんなですか?

幸村
「豊臣家が再建した神社があってその神社の鐘に書かれている文に、「国家安康」「君臣豊楽」とあったんです。それを家康は「国家安康」は家康を分断し「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願ってると。徳川家が没落するように呪い込めやがってというのを言ってきたんですよ。もうめちゃくちゃでしょ(笑)」

出典:http://ameblo.jp/camcam333/entry-11791901308.html

――なるほど(笑)

幸村
「思い出したらまたムカつくのを思い出しましたよ!家康が和平をむすびたいっていうから豊臣家も応じたんです。でも家康はこれを破って戦をしかけてきたんですよ」

――嘘をつかれたんですね

幸村
「大阪城の外堀を埋めることを豊臣側は同意したんです。でも工事が始まると家康は外堀だけでなく内堀まで埋め始めよったんですよ。ちょいちょい待て~いって抗議したんですが、家康はのらりくらりとかわして・・・。そしたらいつの間にかきれいに工事終わってたんですよ(笑)」

――それは怒りますね

幸村
「だから豊臣方も籠城している訳にはいかなくなりましたよ。今までは外と内で二重の堀に守られたんですがね。せっかく家康が大阪城を攻めあぐねてたのになあって思いました」

出典:https://goo.gl/4CismW

――今回で豊臣家は滅亡なんでしょうか

幸村
「豊臣秀頼・淀殿母子*は大阪城内で自害して、城は炎上して落城して・・・。天下は家康のもんになったのは認めざるを得ないです。あっ僕は死んだことにしといてくださいね。バレると面倒くさいんで(笑)」

出典:http://goo.gl/CK6WYZ

――そういえば名前は信繁から幸村さんに改名されたんですか?

幸村「はい。今回の大阪の陣からですね。まだ世間には浸透しませんね。もっと家康を脅かす存在なって売れないといけませんよね」

※諸説あり※




徳川家康*
江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人で海道一の弓取りの異名を持つ。

大阪冬の陣*
家康が豊臣家の滅亡を図ったのがきっかけとなった戦い。ほぼ全国の大名を動員し1614年11月に大阪城を包囲した。兵力は徳川方20万人に対し豊臣方は10万人だった。

馬印*
戦国時代の戦場において、武将が己の所在を明示するため馬側や本陣で長柄の先に付けた印。馬標、馬験とも書く。

松平忠直*
江戸時代初期の大名。越前北ノ庄(福井)藩主。徳川家光や徳川光圀などの従兄にあたる。

三方ヶ原の戦い*
1572年武田信玄と徳川・織田連合軍が浜松市郊外の三方ヶ原台地で激突した戦。家康の生涯で最大の敗戦であった。兵力は武田軍3万人に対して家康軍はわずか1万人足らず。

九度山での幽閉生活*
関ヶ原の戦いで大敗した西軍に味方した真田幸村と父・昌幸は、本来なら極刑に処されても仕方がない状況だった。しかし徳川に味方し活躍した兄・信之が助命を懇願したことで、真田幸村は父と共には九度山への幽閉を言い渡された。

豊臣秀頼・淀殿母子*
秀頼は豊臣秀吉の三男。秀吉の側室であった茶々(淀殿)は母。

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